日田市(天領日田・水郷(スイキョウ)日田)
陣ヶ原から三隈川方面を望む 草野本家を、訪れたとき日田のひな祭りの時期でした。

部屋の中には、時代ものの雛人形やら、市松人形30体など等、所狭しとかざってありましたが、写真撮影不可でしたので、内部は紹介できません。残念です。

最近、専念寺の雛人形が、全国各地から送られてくる人形をかざってあるとかで脚光を浴びています。

豆田(まめだ)町・草野本家の蔵
陣ヶ原から三隈川を望む
大分市方面から国道210号線を久留米方面に横断。湯布院を過ぎ、さらにひた走る事、約1時間。JR九大線に沿って走ります。

そこに、江戸時代天領といわれ、また水郷(すいきゅう)日田、小京都ともいわれる日田市があります。

私ごとで恐縮ですが、実は私この街生まれで、小学校4年までこの街に暮らしました。

その後、ウン十年の間に5度ぐらいしか訪れてなく、今回6度目の日田入りとなりました。

来るたびに街の景観が変わり、昔住んでいたところは、バイパスがすぐ横を走り、駐車場になってました。

昔の面影はまったくありません。アスファルトの道路の数は増え、家屋は立て込み、特に後で紹介する豆田町などは、このウン十年の間に整備保存化され、観光化されどこか違う町にまぎれこんだような感があります。

昔は目立たない町並みだったんですが。

豆田町の並みの重要性が認められた結果、現在、国重要伝統的建造物群保存地区になり今年で1年がたちました。

豆田町草野本家
★★★ 豆田の目抜き通りにある草野本家 日田市豆田町217,126

草野氏は、もともと筑後国の領主であり、豊臣秀吉の九州征伐に破れ、その一族が、日田に逃れ帰農したと伝えられる。

寛永十八年(1641年)に豆田に移り元禄のころ(1688年〜1704年)現在地に居を構え屋号を枡屋、商標を田(かくじゅう)と定め、製蝋(せいろう)業を営むとともに、御用達、庄屋も務めた。

現在残っている建物は9棟で、店と居宅、隠宅などが土間や前裁を取り込んで連なり、その奥に蔵が配置される。

このうち「仏間と次の間、座敷蔵」は明和9年(1772年)の大火をまぬがれた元禄年間の建物と伝えられ、主屋は安永のころ、(1774年ころ)に再建された。

大分県内の町屋では、現存最古の建物であり、いずれも質が高く、風格のある建築とひときわめだつ主屋大屋根妻のなまこ壁は、天領であった豆田町並みの象徴となっている。

尚、長年にわたる建物の老朽化が進んでいることから、昭和62年度から2年間にわたって玄関棟の保存修理が行われ平成7年度からは、座敷蔵の保存修理が行われている。

昭和62年3月29日 

           大分県有形文化財指定 日田市教育委員会  ママ

豆田町通り
豆田町通り
ひた三大祭・日田天領まつり・日田祇園祭・日田川開き観光祭 日本丸館
ひた三大祭・日田天領祭・日田祇園祭・日田川開き観光祭 (大分銀行日田支店シャッターに描かれた絵) 日本丸館

陣ヶ原から見下ろした雨に煙る三隈川とホテル街 ★★★★★ 石人(せきじん)
陣ヶ原にある石人2体
雨模様の夕暮れ陣ヶ原から眺めた日田市街 正面下は南部中学のグランド。
この場所は、地元の人でもはっきりと知らない。実際、分かりずらい。陣ヶ原の石人といえば、とりあえず方向は特定できる。

日田市街から銭渕(ぜにぶち)橋をわたり右折。100m先のローソンの左脇に「石人」の案内板。そこを左折。そして陣が原の方へ上がってゆき3本目の道を左折。

山なりに上がって頂上付近の右側に石人がいます。

陣ヶ原にたつ石人像
石人(左側) 石人 石人  大分県指定有形文化財

二基のうち一基は扁平(写真向かって左側)、他の一基は円体の石人である。扁平石人の頂部は、45cm、

表に人面、裏に矢をさした靭を素朴に刻んでおりもと筑後八女の磐井(いわい)の墓、岩土山古墳に立てられていたものである。

天保(1830年〜40年)ころ、これが久留米候から中津の僧大含に贈られました。大含から隈町の山田氏に贈られて嘉永7年(1854年)鏡坂に置かれた。

下部の台石は、そのときのもので広瀬淡窓の詩と青邨の由来を記した銘が刻まれている。後、さらに現在の場所に移された。

円体石人は甲冑の姿を模し、後年の作であるが、由来もよくわかっていない。

      昭和39年2月21日 大分県指定有形文化財 日田市教育委員会

石人(左側)
石人(右側) 高塚墳墓を伴うもので、古墳の表飾として用いられた石造彫刻。石人の彫刻として有名なのは、

福岡県岩土山古墳で、筑紫国造、岩井を葬ったと伝えられる。当石人2体のうち扁平石人は、岩土山古墳のころ作られたものである。

円体石人は、後につくられ嘉永7年隈町の山田元輔により保存され今日に至る。

陣ヶ原(じんがはら)

今から500年ほど前、わが国は戦乱の中にありました。

戦国時代、福岡、佐賀、筑前に進出する大内氏、反大内勢との合戦に出撃する大友軍が陣をつくったところです。

「豊後国志」に「在石井郷北高瀬村、原野廣平、大友義鑑、(宗麟)毎有大事十肥筑○必大軍比原」とあります。

時代が下がって、長州勢、南下に備えて代官久保田冶部右衛門は制勝組の拠点として「防衛に有利、出撃に便利な要塞をここに城を作る工事を始めました。

この地は日田の町や月隈山麓の陣が一望できる。

       平成14年   銭渕町壮年会   ママ ○印は不明文字

石人といえば臼杵の臼塚古墳にある石人と格好が良く似てるような気がします。

ここ陣ヶ原からは平地が広がり、日田梨の栽培が行われている。


★★★★★ 法恩寺山古墳群
法恩寺山古墳群 第五号古墳
ここは、JR三芳駅から徒歩で10分くらい。日田駅の手前の駅。実は私、三芳駅の近くに子供の頃、住んでいたのですが学校で教わった記憶もありません。

全然知りませんでした。看板は古墳の入り口だけ。他にも入り口があるのかもしれませんが。

雨が降っていたので、第五号古墳までいかしか行かず、途中で引き返す。(軟弱ものです)山歩きの覚悟が必要です。

五号古墳は円墳のようで周りを金網の柵でかこってました。すでに木々が生い茂り、石柱が建ってないと見落としそうです。

全部で7基の古墳があるのですが、なんと国史跡です。

・・・以下「大分県の歴史散歩」より抜粋。『3号古墳は、古墳群中最大のもので、彩色壁画で知られている。

直径約20m、高さ4mの円墳で、複式構造の横穴式石室が南西方向に開口している。石室の規模は全長8m、後室は奥行き2,4m、幅2,3m、高さ2,3m、である。

後室の後壁と右側壁、後室通路北側袖石、前室の左右の袖石とまぐさ石(入り口の上に水平に渡した石)、赤色顔料による装飾がみられる。

その文様は円文、同心円文、飛鳥、騎馬人物像らしいものが描かれている。

副葬品も琥珀製なつめ玉、ガラス玉、轡、雲珠(うず)、須恵器などが出土しており、6世紀後半の築造と考えられる。』

・・・・・他の場所にもガランドヤ古墳、穴観音古墳などがあり、古墳散策にはことかかない。3者とも石室の装飾の様子が違うようで興味深い。ガランドヤ古墳は現在修復中。

法恩寺山古墳群入り口 刃連(ゆき)町 第五号古墳

 廣瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)跡
咸宜園は豆田町に行く途中の(日田駅の方から来て)右側にあります。日田で一番有名な場所ではないかと、勝手に思ってるわけですが、広瀬淡窓(1782年〜1856年)の私塾です。

16歳のとき、福岡の亀井南瞑に入門。病気のため日田に帰郷。24歳のとき家督を弟久兵衛にゆずる。

この広瀬久兵衛と言う人も、財政再建のため、八面六臂の活躍をした。

下記にあげる長福寺にて私塾を開き、その翌々年、豆田裏町に桂林荘を新築。

1817年には、堀田村にあった秋風庵をこの地に移し、咸宜園と命名した。

大分県の歴史散歩より抜粋・・『咸宜園の遺構は存在しないが、

淡窓晩年の居宅秋風庵と書斎遠思楼(えんしろう)が残っていて、

咸宜園跡として広瀬淡窓墓とともに国史跡になっている。咸宜園は淡窓没後、

広瀬家の旭荘、青邨、林外から門弟にひきつがれ、明治30年まで存続し多くの逸材を養成した。

淡窓門下には、高野長英、大村益次郎をはじめ長三州、松田道之らも学んだ。

史跡咸宜園(かんぎえん) 咸宜園(かんぎえん)秋風庵の玄関
史跡咸宜園(かんぎえん)
広瀬淡窓の詩 

道(い)フヲ休メヨ 他郷辛苦多シト

同胞友有リ 自(おのづか)ラ 相親シム 

柴扉暁ニ出レバ霜雪ノゴトシ 

君ハ川流ヲ汲メ 我ハ薪ヲ 拾ハン

咸宜園(かんぎえん)秋風庵の玄関

★★★ 薫長酒造(くんちょうしゅぞう)資料館
『天領という呼称は、普通、旗本領はのぞかれる。幕府が直接年貢を徴する直轄地のことで、・・・』

 『豊後日田は、江戸期では3万2千石、堂々たる天領の地であった。』 

『日本の農村を考える場合、その土地が、江戸期において天領(幕府領)であったか、

それとも大名領であったかを考えておく事が重要であるように思える。

強いて均して言えば、天領はもともと豊かな土地が選ばれていたが、

その上、租税も安く、農家はそのために年々の生産に余剰を得て、

その余剰分が商品経済に関係して行ったりして、

百姓屋敷なども立派な場合が多い

。』・・・街道を行くより抜粋

・・・・・広瀬家は、屋号を「博多屋」といい、代官所御用達の「掛屋」を営み(今で言う銀行のような金融業)、

日田に集まる金、いわゆる「日田金」を取り扱っていた。

ここに学校があり、人があつまってくればもう、当時としては都会です。

今風に言えば、学園都市です。ちょっとオーバーかな?

いずれにしても、こういった学びの気風は最近まで、

地元出身の筑紫哲也さん学長の「市民大学講座」が開かれており、

日田のDNAとして脈々と受け継がれているようです。

作家の故司馬遼太郎さんが、日田を訪れたときの印象を記した文が街道を行く8巻(朝日文庫)豊後・日田街道<天領・日田郷>に載ってますのでそれを抜粋。

『豊後日田は、江戸期では3万2000石、堂々たる天領の地であった。土地では、ヒダといわず、ヒタと澄む。

「日田は水郷です。」と、湯布院の宿の女中さんが言ったが、この場合も、関東の潮来のように、「すいごう」とは言わない。スイキョウという。

日田は高原をなしていて、いわば僻地というに近いが、江戸時代は漢学が盛んで、

広瀬淡窓の咸宜園などは全国からこの遠国のそのまた不便な高原の町に子弟が集まり、

門人3千余人といわれた。江戸期における慶應、早稲田といった私学の雄は江戸よりもむしろこういう土地にあったということが、

江戸体制を考える上で興味がある。スイキョウという名の音(おん)も、この町に漢学書生が充満していたのと無縁ではあるまい。

漢学者は、坊主よみといわれる呉音(ごおん)郷のばあいは「ゴウ」を卑しみ、漢音のキョウをとるのである。・・・以下省略』・・

又、『それらの出身地は奥州のはしから対馬までおよび、六十余カ国の内で隠岐国と下野国の二カ国が欠けているだけである。

このように漢学生が町中にあふれていたために、ついにかれらの使う漢語や漢語よみが、町の言葉の中に遺った。

例えば、この町に三隈川の水に小山が岬のように突き出ている景勝がある。

その小山が亀のような形だから、亀山という。ふつうの土地なら大和ぶりにこれを当然カメヤマというのだが、

日田ではわざわざ漢音でキザンというのである。今では、キザン公園と呼ばれている。・・・以下省略』

薫長酒造資料館
薫長酒造資料館(くんちょうしゅぞう)
蒸し米取り出し用・甑(こしき)下駄
三隈川に突き出た亀山(キザン)公園
蒸し米取り出し用・甑(こしき)下駄

★★★ 長福寺
工事中の長福寺
三隈川に突き出た亀山(キザン)公園

長福寺  日田市豆田町 五十三番地  

当寺は天正12年(1586年)に武内山城守によって開山されたと伝えられ、寛永14年(1637年)現在の地に移った。

寛文の年(1669年)に建造された本堂は、江戸時代前期から、後期にいたる平面及び装飾の変遷過程がわかり

、真宗寺院建築の様式や技法をよく残している。西本願寺旧本堂の西山別院と類似した建築様式をもった全国的にも貴重な建築物である。

長福寺は他にも江戸時代の古い建造物群を残す。天領日田の代表的寺院である。

鐘楼 安永6年(1777年) 

常燈明堂 享保11年(1726年) 

経蔵 享保20年(1735年) 

山門 19世紀前半 

燈篭 元禄13年 (1700年) 

広瀬淡窓の自伝「懐旧楼筆記」によると、長福寺は、淡窓が幼少のときに学び、24歳のとき「長福寺学寮」を借りて

、初めて開塾したところとしても知られている。

                        平成7年3月10日 

      県有形文化財指定 日田市教育委員会  ママ

本堂工事中の長福寺
長福寺の本尊を輿へ
長福寺 保存修理工事終わり遷座式            2006年3月25日の大分合同新聞記事より抜粋

日田市豆田町の県指定有形文化財「長福寺本堂」の保存修理工事が終わり、24日、本尊を本堂に返す遷座式が執り行われた。

工事期間中、庫裏に移されていた本尊を武内一美住職らが輿(こし)に載せ、門徒総代らがゆっくりと運んだ。本堂までくると、

再び武内住職らが須弥壇(しゅみだん)の上の宮殿(くうでん)に安置した。

武内住職は「新しい命を吹き込まれた本堂が完成し、これから300年、500年先の人たちに受け渡す事ができることに喜びを感じている。」と挨拶。・・・以下省略」

日田市豆田町長福寺 (大分合同新聞に掲載の写真より)

★★★ 日田市大肥の井上酒造・井上準之助生家
井上酒造・井上準之助の生家 日田まで来たら、ここまで足を伸ばして見るのもいいかもしれない。日田方面からだと夜明(よあけ)を右折。

大肥川沿い、JR日田彦山線を宝殊山方面へ北上。国道211号沿い左手にある。

井上準之助(1869年〜1932年)の生家

明治時代の経世家。ここを訪ねた1週間ぐらい後の大分合同新聞に「井上準之助の業績を後世に」ということで、記事が掲載されていた。

それによると、『国内初の日本人向けゴルフ場開設(東京ゴルフクラブ)。

社団法人「東京ゴルフクラブ」は、19日、準之助の生家、日田市の大肥の井上酒造に準之助がプレーするパネル9点を贈った。・・以下省略』・・・とある。

この生家には準之助のプレーする写真が1枚もなかったかららしい。車で行ったため、ここのお酒は飲みそびれました。

井上酒造<井上準之助の生家>
井上準之助

明治29年、東京帝国大学法科卒業後、日本銀行に入社。後に日本銀行総裁に二度就任。

大正12年関東大震災復興の山本権兵衛内閣大蔵大臣として、人心の不安を抑え、財政再建の手腕を発揮。

昭和4年は浜口内閣の大蔵大臣就任。積極的な金解禁の必要とそれに対処する国民の覚悟を訴え、金解禁を断行。

同時に財政緊縮政策をすすめた。昭和6年、第2次若槻内閣の大蔵大臣に就任。財政緊縮政策をするも、若槻内閣は、総辞職。

昭和7年、犬養毅内閣成立。組閣早々、金融解禁反対の立場で、金輸出再禁止実施。議論し国民に是非を問いただすべく議会を解散。

昭和7年2月7日、その演説会場で準之助は暴徒に撃たれ、62歳で非命に倒れた。

準之助は、「清渓」の号で優れた書家でもあり、「深思高飛」の額を残している。

まさに自分にとって、また国にとって是と信ずれば、それがどのように自分にとって不利をもたらそうとも、あくまでも遂行する信念をもった実践の人であった。

金解禁 大正6年以来の金輸出禁止政策を解禁する政策

                         日田市教育委員会  ママ

井上準之助・清渓文庫
清渓文庫

★★★★ 日田鏡坂ルブラン・ライブ
香川有美・中村ヨシミツ・ルブランライブ
毎年日田の川開き花火大会にあわせて催される鏡坂にあるルブランライブは、今年で13回をむかえる。毎年、ライブは、5月4週目の花火最終日の日曜日。

因みに川開き花火大会は、連続2日に渡って開催され、今年は20.21日両日。

今年2006年で59回目を迎えました。終戦直後から、がんばってます。

私も3回ほどこのライブ兼花火大会に参加しましたが、毎年天候の変わり目の時期のせいか、前日まで当日の天気を気にしてます。

今年は、天候にめぐまれ、風も強くなく大変結構な花火日和でした。

この鏡坂にあるルブランは、少し小高い丘にあり、三隈川が眼下にながれ、花火を見るには、さえぎる物がなく絶好のスポット。

屋外にある屋根つきステージで、ライブとライブの間に花火があがる。

御客は最初ステージの方向を向きライブを楽しみ、花火があがるころには、振り返って体の向きを変え空を見上げればよいわけである。

花火付6億?のライブの出来上がり。毎年、同じアーチストを呼び、13年続いているのも稀有。

香川有美さんも、ギタリスト中村ヨシミツさんもベテランアーチストで香川さんは、シャンソン、ファドを中心に、大分出身の大塚博堂などレパートリーは多彩。

またヨシミツさんは、独自のギター奏法をもち、作曲、歌の伴奏など中心に活躍している。演奏の合間のトークは、落語をきいているようである。

二人がはるばる東京から、日田にくるのを楽しみにしているファンも多い。

主催の桑野洋輔さんは、日田の考古学同好会のメンバーであるが、最近、息を吹き返したか?に見える虎キチで、毎回、黒と黄の注意印のハッピをきて司会をします。目立つように。

虎ファンの皆様、六甲おろしを一緒に歌いましょう・・・・とまでは言いませんが。

無論かく言う私もトラファン??です。長い人生、付き合いは大事だと思うことにしました。チケットは、2000円。酒類の持ち込み可。良心的であります。

香川有美・中村ヨシミツ ルブランライブ
陣が原銭渕壮年会のメンバーでこのライブの主催・虎キチ桑野洋輔氏
陣ヶ原の銭渕壮年会のメンバーでこのライブの主催・なぜか虎キチ桑野洋輔氏

テレジン・童謡唱歌ライブコンサート(テレジンを語りつぐ会)
ルブランライブの屋台
「テレジンを語りつぐ会」のライブコンサート・中央 三原ミユキ・ギター 中村ヨシミツ
会場の屋台
歌手 三原ミユキ ・ ギター 中村ヨシミツ
暦のうえでは、夏も終わりの8月25日、日田の文化センターで、童謡・唱歌のライブコンサートがありました。

前出のライブと企画者は同じ桑野洋輔氏。今回は、日田教育委員会と考古学同好会、「テレジンを語りつぐ会」が、共催のようであります。

こちらは、今のところ不定期のようで、日田でやるのは2回目とのこと。

「テレジンを語りつぐ会」は、日田での初演後、結成されたようで今回、テレジンのハイライトと、これに童謡・唱歌が加わった。

テレジンとは、何か?第二次世界大戦中、ユダヤ人強制収用所のあったチェコのプラハ近郊の街の名前であります。

ここに、収容された子供達が、アウシュビッツに送られるまでに書かれた、4000枚ちかくにはなろうかという絵と、子供達の詩が戦後発見された。

その詩を日本語に訳されたのが、野村路子さん。(テレジンの小さな画家たち、野村路子著、偕成社)その詩に曲をつけたのが、中村ヨシミツ氏。今回は、二部構成で、童謡・唱歌以外にも、テレジンの曲や、シャンソン歌手の荒木氏も加わり、御客も一緒に歌う時間もあり、老若男女楽しんでおりました。

歌手の三原ミユキさんは、前出の香川有美さん同様、中村ヨシミツ氏とコンビを組んで永い。コンビとは言わないのか?漫才ではないから。デュオというのが正式か。でも会話は、・・・漫才に近い??。

三原ミユキさんはシャンソン歌手ではありますが、この人の歌の原点には、童謡、唱歌があるようで水を得た魚のように歌っておりました。本人は、気づいてないかもしれないが、いい線いってます。歌は人柄がでます。

またまた、例のごとく、背番号80の岡田監督のTシャツ姿で登場した桑野氏。今回は、意識的に抑えてます。


番外編 白神(しらかみ)の映画をつくる会   ドキュメンタリー映画「白神の夢」
秋田八森町のハタハタ漁 映画「白神の夢」より
白神のブナの森地域一帯が近年世界自然遺産に登録されたなぜ、秋田の白神が、ここの項にあるのか?なーんでか?それはね、・・・この企画製作者が、日田で上映しようと思って訪れたことがあるからであります。

私は、先だって、上京した折り、この映画の上映に偶然出くわした。実は、2年ほど前からこの映画の存在は、人づてに聞いて知ってはいたのだが、見る機会がなかった。

二年ほど前から、新宿の居酒屋「石の花」で月一回、(月の一週目の日曜日)上映会を行ってきた。私の場合、基本的にアルコールコミュニケーションの形をとっているため、飲み屋での情報収集に傾きがち。

製作者本人が機材をもちこんでの上映である。白神の取材、足かけ10年、私は別に映画評論家でもないので、うまい言葉は見つからないが、製作者の人柄が現地にスムーズに受け入れられたのもあってか、親しみやすくかつ深く掘り下げた内容となっている。

ここの他にも、上映の要望があれば、北は、北海道から南は沖縄列島まで飛び回っているとのこと。ちなみにこの映画は、環境をテーマとした愛知万博のとき、上映されたのでありました。

で、日田にも縁あって立ち寄ったが、未だ上映に到っていないらしい。

製作者本人の陽性の人柄に合って、なかなか明るく希望に満ちた映画となっている。この方、山下勉氏、年のころから60代半ば。

上映後、話を聴く機会があったのだが、話の論理に透明性があり、かつ構想力豊にして行動力、組織力、機動力とでもいったらいいのか、今までほとんど、お目にかかったことがない稀有な人物。話がすこぶる面白い。

まず、映像は八森町のハタハタ漁の様子で始まり、終わりは海の中を群れになって泳ぐハタハタを映し出している。ちなみに、

このハタハタ、漢字で書くと魚へんに神と書いたりするらしい。水の中を泳ぐハタハタは、いわゆる左右のむなびれが幅広く、旗が風になびくように波打っている。ハタハタが泳ぐ姿初めて見ました。

おそらくこんなとこから、命名されたのではないか、と解釈してしたのでありますが、真偽の程は、地元の人に聞かなければ分からない。

上映時間3時間弱であるが、前・後編に分かれているためか、そんなに長いと思わないのがミソ。

中味については、見てのお楽しみということではありますが、大雑把に要約すれば、・・・実は力不足でできないのでありますが、・・・

ブナの森林をかかえた白神山地を水源とする、赤石川流域、(他にも二本流れている)そこに暮らす八森町の地域共同体の人々に視点をあて、

太古の昔から存在し、かつ現代にも恵みをもたらしている白神山地の恵みのすばらしさを、生態系の営みからとらえ、次の世代の子供達に地域の大人が継承させることによって、新たな地域共同体のあるべき姿を模索していく。

その中心はなんと言っても家族である。映像に写った子供の顔はなんとも生き生きし、白神の地に育っている事を誇らしげにしているようだ。昨今、このような光景は見かけなくなった。

最近、そういえば、ミュージッシャンのBEGINが沖縄に活動の拠点を移したと聞いたが、聞けば自分達の住んでいた土地のすばらしさを改めて知るに到った、と語っていたのを思い出す。

今年は、「千の風」千風(旋風)が吹き荒れましたが、「涙そうそう」もいいですね。酒飲みながら聴くと、ついほろり。・・・余談でありました。

ミュージシャンの坂田明氏の音楽が全編に流れるが、なかなかすばらしい。また、坂田明氏のミジンコの命の営みを子供達に講義する映像もまた、印象的でありました。

この映画は、経済効率などという言い古された言葉は、かたわらに追いやり、映像を生かした上質の教育論であり、

また、過疎化などで諸諸の問題を抱えている現代の地域共同体を活性化させる方法論にもなっている。本当は、もっと、ダイナミックに語るべきところであろうが、・・・これが私の限界か。

白神こだま酵母でパンを作るなんてのもありましたね。この酵母は、そんじょそこらの酵母と違うらしい。白神山地の腐葉土で育った、この酵母菌は、何でもマイナス40度まで低温保存が効くそうで、今まで知られていた酵母菌の概念をくつがえした。

白神山地特有の地形が生み出した、つまりは、特産物になった。

秋田八森町のはたはた漁
ドキュメンタリー映画「白神の夢」製作スタッフ名
ドキュメンタリー映画 「白神の夢」前編・後編3時間弱

企画制作 山下勉

監督 小池征人

撮影 一之瀬正史 山田武典 伊勢武典

現場録音 永井重生

仕上げ録音 弦巻裕

映像記録 藤田和雄(ハタハタの産卵)

       佐藤孝之(アユの遡じょう)

       坂田明(ミジンコ)

       江川正幸(酵母菌)

宿舎    山内省一

   <白神の映画を作る会 >

   X循環システム研究所

 代表  山下勉

〒171−0033

東京都豊島区高田3−19−6 いずみやビル2F Z:03−5958−2627

白神山地水源から落ちる滝と祭り
バッファーゾーン 核心地域をまもる
総合的学習「白神の秘密を探れ」『白神の動植物』
白神山地水源から落ちる滝と祭り

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